2008年06月
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◆2008年06月01日(Sun)◆
『内田勝氏死去』
先ほどYahooニュースを見て知りました。

「巨人の星」など世に 元マガジン編集長・内田勝氏死去

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080601-00000929-san-ent


日本の漫画界は大変重要な人物を失ってしまいました。
なんて言っていいのか…。
内田さんとは平井和正先生を通して、懇意にさせていただいていました。
それで現在進めている原稿の出版も、三五館の星山社長を内田さんに紹介していただき、決まったという間柄だったので…。
実は、今行っている仕事も三五館を通じて内田さんにずっと見ていただいていました。
それが完成を待たずして、こんなことになるなんて…。
内田さんが癌に苦しんでおられたのは、前々から星山さんや平井和正先生を通じて知っていました。
昨年、抗がん剤投与のため入院され、その後退院された時に「元気だから」と電話を頂き、安心していました。
昨年5月、三五館でお会いした時は実際にまだお元気でした。
そのときに、3時間以上に渡って私の原稿の打ち合わせをさせていただきました。

内田勝という人物を日本の漫画界関係者で知らない人はいません。
内田さんは元々、週刊少年マガジン黎明期に平井和正先生の担当編集者をされていた方です。
のち「あしたのジョー」や「巨人の星」「ゲゲゲの鬼太郎」「8マン」「幻魔大戦」「天才バカボン」「デビルマン」「タイガーマスク」「仮面ライダー」など日本漫画の最高峰、名作の数々を生み出した60年代の週刊少年マガジンおよびに、当時のマガジンブランドを冠した雑誌群の編集者、編集長、プロデューサーでした。
平井和正先生とは、おそらく人生一生の相棒のような方でした。
私はそのとき小学生でマガジンもサンデーもジャンプも全部大好きで、毎週愛読していました。
小学生の私からみても、そのときの少年ジャンプは生まれてまもなかったので、内田少年マガジンを毎週お手本目標にしている、と感じたほどでした。

私は少年ジャンプで描いていた漫画家なので、そんな内田さんと仕事ができることを、大変光栄に思っていました。
ジャンプ出身であの内田勝さんに直々ネームをみてもらった漫画家は永井豪先生以外は、おそらく私しかいないんじゃないか、と密かに自慢に思っていました。
なぜかというと、内田さんが週刊少年マガジンや月刊少年マガジン、ぼくらマガジンの編集長の仕事をされていたのは1971年までです。
80年代以降に少年ジャンプで連載をしていた私のような漫画家にとっては、内田さんに原稿を見てもらいたくても、当時でさえ、もう少年マガジン編集部には在席されてらっしゃらなかったので不可能はないかと思ったからです。
私は、だからこの数年前に内田さんにネームや原稿をみてもらえると知ったときは、まるで昔、アントニオ猪木とジャイアント馬場の両者と対戦した経験がある、ということを自慢していたレスラーのような心境になりました。
これは勲章モノだと思いました。
私は1980年以降の著名な少年ジャンプの歴代編集者はほとんど知っていますが、対岸であるマガジンの1960年代の伝説の編集長とはどういう感じなのだろう、という好奇心がありました。
80年代の少年ジャンプ編集部、60年代の少年マガジン編集部はどちらも日本を代表する漫画雑誌の各黄金時代であり、新旧の頂点の現場で仕事をしていた人たちです。
例えると、漫画家がテレビ局でいうと、タレント、出演者だとすれば、ディレクターやキャメラマン、オペレーターなどの裏方さんたちが編集者のようなものです。普通に雑誌やテレビをみている一般読者、視聴者などの部外者には知り得ない事を、一番目撃しているのが、裏方さんたちなのです。
で、果たして、60年代の少年マガジン黄金期とは、どういうものだったのだろう。
私の知る80年代の少年ジャンプとは、どう違うのか、と。
そして80年代の週刊少年ジャンプで描いていた私を、内田勝は、60年代週刊少年マガジン編集長は、どう見るのだろう、果たして私はそもそも通用するのか、と。
これを実現していただいた内田勝さん本人、平井和正先生、そして三五館の星山社長には、感謝の気持ちで一杯です。
昨年5月に、内田さんにネームをチェックして頂いた時のことは忘れません。
今となっては、私の一生の思い出になってしまいました。
そのときは重大な病気にかかられているにもかかわらず、故手塚治虫先生や当時のマガジン、平井和正先生との思い出話になると、ユーモアたっぷりに、数多くの逸話を話してくださり、元気なご表情をされていました。それで私は少しほっとしました。
さらに、いったんネームの打ち合わせに入ると、たちまち目つきが鋭くなり、おそらく当時も編集だった時はこういう顔だったんだろうな、という顔つきになり、次々と私のこんがらがった作品のアイデアを素早く整理され、最高のアドバイスを内田さんからお聞きすることが出来ました。
そのとき私は今までに出会った漫画編集者で、内田勝こそが間違いなく最高クラスの編集者だと感じました。
そして、あのときの少年マガジンとはいったい何だったのか、なんとなく理解できました。
当時、内田さんが「これは面白い!」と直感したものの集合体、それが少年マガジンそのものだったのでしょう。
作品の長所短所に対して、良いところを分りやすく具体的に説明して、作家をやる気にさせ、良くないところも、嫌みなく説明してもらえる、このあたり前のような事をさらりとやってのけれる人でした。
あれでもいいし、これでもいい、という中途半端な感じはなく、それでいい、そうしたらだめ、と実にシンプルなんです。
その理由もきちんと説明してもらえて。
自信と経験がなければ、こうは言えません。

「あ、この人にかかれば、名作が生まれるはずだ」
「マガジンが面白かったわけだ」
直ぐに、そう感じたものでした。
私なんかが内田勝を語るのは、まだまだお呼びでないかもしれないのですが、内田勝さんとは、一言でいうと、「好奇心」の塊のような方でした。
私の仕事場にいらっしゃったときも戦前発行された大正時代の書物を直ぐに見つけると、「へえー!これ面白いねー!」とおっしゃり、ずっと私の本棚をきょろきょろ眺めていらっしゃいました。そのときの表情は、生き生きとして、青年のようで、とても70代の方とは思えませんでした。
内田さんはいつも「何か面白いものはないか」と生涯アンテナをピンッと立てていらっしゃったように思います。それが数々の少年マガジンでの伝説を築かれたヒントのように思いました。
私が内田さんと約束した事は、必ずやります。というか、なにが何でもやらなきゃ。


今は、ただただ謹んでお悔やみ申し上げます。


まつもと泉

2007年5月 内田勝さん


 

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