2008年11月
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◆2008年11月05日(Wed)◆
『まつもと泉 大分へゆく!の巻』
先週、友人と2人で九州の大分へ行ってきました。
2003年1月に急逝した元週刊少年ジャンプ編集長、高橋俊昌さんの墓参りです。
同行した友人とは私のデビュー当時に一緒に「まつもと泉」というペンネームを共有していた相棒です。「まつもと泉」とは「藤子不二雄」氏や「ゆでたまご」氏のように2人で1人の共同ペンネームだったのです。
だから友人も高橋さんとは相当昔からの馴染みでした。(昔、私と連載中に千葉へ旅立ったり「せさみすとりーと」や「comic-ON」装丁デザインを小松整司氏と手伝ってくれたのも彼です)。
ちなみに今回のブログタイトルは「きまぐれオレンジロード特別編・まつもと泉 千葉へゆく!の巻」とかけています。
この回に高橋さんも友人も顔出し出演していますからね。「きまぐれオレンジロード」の毎回のタイトル名や扉絵のあおり言葉は全て、高橋さんが苦労して考えてつけたものです。
高橋さんは生前、私の顔を見かけると、必ず最初に「彼はどうしてる?」と友人までも気にかけてくれました。

なので今回デビュー当時のメンバーでの「まつもと泉」として野郎で2人旅。(笑)
しかし、今年になって高橋さんの墓参りというのは遅すぎますが、あの時私も体調が思わしくなく、なかなか九州へ行く事ができなかったので今回ようやく行けた、という感じです。ずいぶんまたせたね、高橋さん…。申し訳ない。
このブログで初めて知る方もいると思うので、高橋さんの事を紹介します。

高橋俊昌さんは私の初代担当編集者で、元週刊少年ジャンプの編集長でした。
仕事中に突然体調を壊し亡くなられました。享年44歳、私とは同い年でした。週刊少年ジャンプで「きまぐれオレンジロード」連載中、4年間にわたり全話担当していただき、いわば「きまぐれオレンジロード」は私と高橋さんの合作です。
私がプロマンガ家になれたのは、高橋さんのおかげです。
1981年、私と友人がアマチュア時代にマンガの持ち込みで最初に週刊少年ジャンプ編集部に電話をし、そのとき集英社入社一年生の高橋さんが偶然電話をとり、それからの付き合いでした。高橋さんとはいわば運命の出会いだったように思えます。たぶん、あのとき高橋さんが電話をとっていなければ、「きまぐれオレンジロード」は生まれなかったでしょう。もちろん私の人生も違っていたでしょう。
私は今でも作品を考えている時、高橋さんなら…なんと言うだろう、と思い、はっと我にかえる時があります。
私の心の中では今も高橋俊昌は担当編集者であるのです。

高橋さんの実家のご両親は健在で安心しました。彼の墓に案内していただき、友人と2人で手を合わせてきました。
ご自宅でも大変な持てなしをしていただいて多いに恐縮し、彼の遺影を前にご両親と生前の思い出話を数々しました。してもしても足りなく、話していてお母さんが高橋さんの性格にそっくりなので驚きました。生前、高橋さんは厳しい言葉で私にプロとしての態度を叱りつけた事がありますと私が話すと、お母さんは「俊昌の言うとおりです!」「私だってそう言います!」という元気な表情をされて仰った事が印象的でした。その時高橋さんに怒られた気がして、懐かしく嬉しくなりました。
ご両親から伺ったところ、今日までに多くの方がお墓参りに訪れたと話されていました。その中には私のよく知ってる編集者やマンガ家ばかりで、何度も来る人も多く…ジャンプの連中って本当にいい奴らばっかりだな… (´Д⊂グスン
高橋さん、また来るよ!九州、飯が美味くて土地も風光明媚でした。



まつもと泉


これは1985か86年(たぶん…)ジャンプスペシャルアニメ制作時のもの。
高橋さん、サントラ担当のビクターの桜井ディレクター、主題歌を歌っていただいた河内りえさんと共に。
みんな若いですな!




 

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